第38話

目の前にあったはずの重圧が消えている。

 ただ、襲い掛かってくる脅威から後ろに控える者達を守るために無心で剣を振るい続けた。


 白く染まり立ち止まっていた意識が一歩を踏み出そうとしている。


 身体の感覚は靄がかかったように曖昧だった。剣を握っているのか、立っているのか、息をしているのか。

 そもそも、自分は生きているのだろうか。


――死の領域、というものがある。


 読んで字のごとく、そこは生きている者のいるべき場所ではない。先程まで大地を埋めつくしていた生ける屍アンデッドの領域に思えるが、それともまた、違う。


 それは、限界を越えた先にある領域。その領域に足を踏み入れた者は、生も死もなく、体力が尽きることもない。

 ただ目の前にいる敵と戦い続けることから、狂戦士ベルセルクと呼ばれることもあった。


 限界を越えて死の領域に入った者は戦いが終わるまで動きを止めることはない。しかし、戦いが終われば、死の領域から足を踏み出すことになる。


 生を捨て、死を拒絶した戦いの代償は決して軽くはない。


 意識が少しずつ現実へと引き戻されていく。戦闘が終わったにしては周りが少しうるさい。

 自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。ひどく、懐かしい声。


 共に騎士を目指した幼馴染。師とも呼べる上官。命を懸けて戦った敵将。異世界からきた少女。守れなかった民。自分を見送る母。


 どうやら、たくさんの人を待たせているようだ。戦いは終わった。いま、そっちに――


「そちら側に行ってはならんのぅ。こっちじゃよ、こっち」


 穏やかな老人の声が聞こえた。何を思うでもなく、踏み出す足は声の方を向く。一歩前へと進む。


「む……ぅ」


 白く塗りつぶされていた視界に色が戻る。同時に、死の領域へと入ることで消え去っていた、痛みや疲労が一気に押し寄せてきた。


「うむ。よくぞ帰ってきた。死の領域で死者のいざないに惑わされれば、二度と戻ってこれん」

「……貴殿、は……? 皆、は……?」

「安心せい。今のところは、皆無事じゃ。ヌシが一番危うかったが、こちらに戻ってきたならば大丈夫じゃろう。今は眠ると良い」


 グランフェリアの手が淡く光ると、死人のようだった騎士の顔に生気が戻る。騎士はすでに意識を手放しているようだった。


「さて、怪我人の治療も終わったことじゃし、ワシは帰るかのぉ」

「ん? 帰れるわけ無いでしょ。死にたいの、ミノル」

「その名前で呼ぶない……」

「アトレイアさん、グランフェリア師に失礼だよ」

「ミノルはアタシの下僕だからいいのよ。さっさと皆をマルドアに送りなさい」

「簡単にいいよるのぅ。転移って腰にくるから嫌なんじゃが」

「アンタの腰とアタシの手間、どっちが大事かなんて考えなくても答えは出てるわね。さ、やりなさい」

「ぐぬぬぅ……」

「僕が頑張って運びますよ、グランフェリア師」

「それものぅ…」

「お三方は仲がよろしいのですね」

 

 旧知の仲であろう、グランフェリア達の輪に、魂喰らいの大樹に止めを刺したユスティア・バレスタインが入ってきた。


「まさかアンタが来るなんてね、ユスティア。マルドアになんか用でもあったの?」

「ええ、少し。イクフェス殿の帰りが遅いので、ゾー殿に無理を言って連れてきてもらいました」

「え、イクフェスもおるん!? ワシ、やっぱ帰る」


 タイミングを見計らったように、イクフェスと司が戻ってきた。二人とも血や泥で全身が汚れていたが大きな傷は負っていないようだ。


「噂をすれば、じゃなぁ……ワシ、おヌシ苦手」

「まあそう言うなミノル。せっかくだからアトレイアの相手をしてやれ」

「ぬぅ……ヌシ等はかたくなにワシをその名で呼ぶのう」

「ん? ミノルはミノルだろう? 名を呼ぶと不味いか?」

「そういうとこ苦手なんじゃよ……」


 グランフェリアは意気消沈といった雰囲気で集まった者達の数を数えた。なんだかんだと、アトレイアの指示には従うようだ。

 その傍らで司がキョロキョロと誰かを探している。


「由那っち来てなかっ……んげ!? ユスティア・バレスタインがいるッス!!!」

「貴方は先日ザマ砦でお会いしましたね。私の部下が少し驚かせたようで、申し訳ありません」

「い、いやぁ、鳥、うまかったッス。ところで由那っちは……」

「タケウチ殿であれば、そこに」


 ユスティアが指した先にある樹上で、何かを警戒するように天を睨む少女がいた。


「由那っち、なにしてるッスかー?」


 司はユスティアから距離を取るように由那の下へ走っていく。


「空になんかあるッスか?」

「ん、ツカちんか。なんでもないよ」

「なんもないなら、もう良いッスかね? そろそろ皆帰るみたいッスよ」

「……そだね」


 樹上から飛び降りた由那は、もう一度確認するように空を見上げてから、グランフェリア達の元へと戻った。


***

 由那が睨んでいた空に二つの影があった。

 一つは、白く輝く銀髪に不健康なように見える青白い肌をした女。

 もう一つは、黒衣をまとった銀髪の男。


「よくもまぁ、あんなに集まったものですねぇ」


 女は眼下を一瞥して続ける。


順風耳じゅんぷうじに、反魔アンチマジック、それとそらおう。マルドアの英雄が大集合です」


 女の言葉を確かめるように、男も地上を見る。


「イセンからはまだら大魔道だいまどう。そして勇者が三人。極めつけは万夫不当ばんぷふとうですか。如何に育ちきった魂喰たまぐらいの大樹たいじゅといえ、あれ程の実力者に囲ままれればひとたまりもありませんね」


 無言で地上を見る男の目に、完全に沈黙した魂喰たまぐらいの大樹大樹から生まれた生ける屍アンデッドが見えた。


 魂喰たまぐらいの大樹大樹は国を滅ぼすために生み出した魔物だ。ガルン・アハマトマの死霊術も合わせれば、大陸を蹂躙してもおかしくない戦力。それを一人の犠牲を出すこともなく倒してみせた。


 男は戦い終わった勇者達をじっと見つめている。


「いかが致しましょう?」

「……少し土産でも置いていくか」


 一瞬、男の赤い双眸が怪しく光った。しかし、何かが起こる気配は無い。


「戻るぞ、リスタ。魂喰たまぐらいの大樹たいじゅなど、所詮は遊びだ」

「承知しました。では道を開きます」


 女――リスタアズラールの背から生える蜘蛛の足が虚空を掻くと、空間が裂けて人が通れるほどの穴が空いた。

 

「勇者、か。おもしろい……抗ってみせろ」


 眼下を一瞥した男は黒衣を翻して穴へと消える。続いてリスタが入ると穴は除々に狭まり、その空間から完全に消える。

 後には何もない空だけが残っていた。


 傾きかけた陽が、徐々に森を朱に染めていく。

 薄暗い森は夕日に照らされ、血に濡れたような不気味な色に染まっていた。