第1話

 月。


 冷たい光で闇夜を照らす蒼い月。


 蒼月が照らすのは、満開の桜。

 桜の花びらは月光を浴びて、朱に青に白に薄紫に、色を変えては舞い散り、やがて夜の闇へと消えていく。


 そこはどこか、不可思議な空間だった。


 蒼月が輝く天がある。否、それを天と呼べるのか。


 闇夜を照らす蒼月に座すように、巨大な建造物があった。

 その建造物は和風の城に似ている。高く積まれた石垣。漆喰しっくいで造られた白い壁。黒く湾曲した屋根瓦。しかし、その形は歪で、石垣の上には大小多数の建物が密集していた。


 月を天とするならば、逆さまに吊るされたように見える歪な城。

 この空間には大地が無い。縱橫に乱立する桜の木は何もない空間に上も下もなく浮かんでいる。


 地が無く、天すらも曖昧。およそ現実ではありえない光景。


「「紅月が青に染まった。時がないぞ」」


 男、女…子供、老人…数人が同時に発したような声が響く。

 声は歪な逆さまの城にあって、一際高い天守のような建物から聞こえる。


「月が冷えておるのぅ」


 しわがれた老人のような声。声はやはり天守から響く。


「蒼月も悪うない。どれ、滅多に見れぬ月を肴に酒でも飲むとするか」


 大きく開かれた天守から、声の主が顔をだす。


 姿形は巨大な体躯を持つ狐。

 曇り一つ無い白い顔。耳から首、身体を覆う体毛は鮮やかな金。そして淡く光を放つ九つの尾。


 月光に照らされる九つの尾を持つ白面金毛の狐は、切れ長の赤い目を細めて蒼い月を眺めている。


「「そのように悠長なことをしている時間はなかろう」」


 また、複数の人が同時に発したような声が響く。声は白面金毛の狐が顔を出す天守の奥から聞こえている。


 逆さまの城の天守には、天井――通常の城であれば床に当たる部分が無く、巨大な建物群へと繋がる場所には天へと昇るように冥い奈落があるだけだった。


「儂は流れに任せるだけじゃよ。時間はあるといえばあるし、無いといえば、無いのじゃろう」


 奈落に向けて狐が語りかけると、冥い奈落の奥から何かが這い出してくる。

 ぬっと伸ばされた巨大な手。皮も肉も付いていない骨だけの手が壁を掴み、その巨体を月光の下へと持ち上げた。


 それは巨大な骸骨だった。十メートル四方はある天守を埋める程の巨体を窮屈そうによじり、蒼い月を見上げていた。


「「早すぎる。持たぬぞ、このままでは」」


 顎の骨をかたかたと鳴らしながら、複数の人間が同時に喋っているような声を発する。


「あまり近くで騒ぐでない。耳が遠くなるじゃろが。言われずとも、主の懸念は分かっておる」


 狐は自らの身体よりも大きい髑髏どくろの黒い眼孔を睨みつける。


「図体に似合わず小うるさい奴じゃな。まあ、そろそろ退屈しておったところじゃ。行くとするかの」

「「やっと動く気になったか。手間のかかる」」

 

 髑髏どくろの黒い眼孔が赤く光ると、城の天地が入れ替わった。狐は巨大な骸骨の肩へ飛び降り、こーんとふざけた様子で鳴く。

 

「たまには外に出るのも一興。さてさて、何が待っておるのかのぅ」


 城がほどけていく。瓦も壁も柱も、全てがほどけ、空へと落ちていく。

 巨大な骸骨も、九つの尾を持つ白面金毛の狐も、城と共にほどけて空に落ちる。

 無数に浮く桜の木も、花を散らしながら、ほどけて空に落ちる。

 

 全てが空に落ちて消える。


 ――やがて舞い散る花びらだけが残り……それも、溶けるように夜の闇に消えた。



 蒼い月だけが、消えること無く闇夜を冷たく照らしていた。