第9話

 光のない闇の中にいた。

 いや、それは闇ではなかった。身体が浸かる程、大量の血。

 鉄の匂いが鼻を突く。周りを見渡すと、首のない死体が血の海を漂っていた。


 血の海に浸かっていると、自分も首のない死体と同じではないかと思えてくる。首をなくし、ただ赤い黒い闇を漂うだけの存在。

 血の海に浮かびながら何気なく見上げると、ぼろ布をまとった闇が、嗤いながら騎士の、少女の首を落としては血の海に落としていた。


 血の海を流れてきたゴルダの首がじっと見つめてくる。光が失せた青い瞳は、ここで何をしていると非難しているようだった。


 ゴルダから目をそらすと、次は伽奈美の首が問いかけてくる。


――なんで、逃げたん


 虚ろな瞳のまま、青黒い跳ねっけのある髪を血で濡らした伽奈美は、延々と同じ言葉を繰り返す。


――なんで、逃げたん


 自分は、戦ったはずだ。手には聖剣を振るった感覚が強く残っている。


――なんで、逃げたん


 ああ、そうか。ここは、自分が逃げた先にある光景だ。戦うことを知らない内に、命を落としてしまったゴルダがじっとこちらを見つめている。戦うことで、助けることができたはずの伽奈美は逃げるなと繰り返す。


 戦わなければ、血に沈む。多くの人が、血に沈む。冥く深い血の海の上で、ぼろ布をまとった闇は、嗤いながら人々の首を落とし続ける。


 戦わなければ。アレを許してはいけない。戦う力があるならば、これ以上血の海に沈む者を増やしてはならない。

 例え自分が血の海に沈むことになろうとも。それが、この世界に召喚された自分の使命。

 それが、勇者として、自分が果たすべき、責務。

 戦わなければ。人々を血の海へと落とす、あの闇と。戦うための武器は――――


 じわりとまぶたに光が滲む。薄く目を開くと、そこは最初に目覚めた、いささか以上に豪華なベッドの上だった。


――戦わなければ


 夢と現の境界が曖昧な感覚の中、天へと向けられた右手には聖剣が握られていた。

 手にした聖剣を見ている内に意識が覚醒していく。


 酷い夢だった。夢のことを忘れようと、軽く頭を振って聖剣をベッドの脇に立てかける。周囲を見渡しても、部屋には誰もいないようだ。


 ベッド脇に置かれたテーブルに水差しとカップが用意されていたので、水を飲んだ。冷えた水が喉を潤し、いくらか気分がよくなったが、外に出る気にもなれず再びベッドへと腰掛ける。


 レーベンガルズ、勇者、そして……魔族。ここはいったい何なのだろうか。そして自分はなぜ、ここに召喚されたのか。夢の記憶が蘇る。自分の目の前で死んだゴルダ。そして戦うことで救うことができた伽奈美。


 なぜ逃げた、と問う伽奈美の首は、逃げれば血の海に沈むことになると警告しているようだった。立てかけられた聖剣を見る。戦いの中で自らの手に顕現した、神器。あの時は敵を倒すことしか頭に無かった。


 自分の身体が、魂が敵を倒せと叫んでいた。


 自分の中にあんなにも激しい感情があるなんて思ってもみなかった。日本では、喧嘩をすることも無ければ、誰かに対して声を荒げるような激情にかられたこともない。

 これからどうなるんだろう、とぼんやり考えていた。


 ――コンコン


 ドアをノックする音が聞こえてきた。返事をする気力もわかず、ただぼんやりと扉を見つめる。


「入るぞー」


 言いながら男は無遠慮に室内へと踏み込んでくる。ベッドに座る俊彦を見つけると

「なんだ起きてんじゃねーか。いや、来てよかったぜー」

と、ベッド近くの椅子に腰掛け、俊彦を見つめながらうんうんと機嫌よく頷く。


 赤く癖のある髪をゴーグルで抑えた青年。騎士とは異なり、動きやすそうな服装に、腰には二本の短剣を携えている。

 少し童顔で、子供のように笑うが雰囲気から自分よりは年上だろうと思った。


「身体の調子はどーだ? 結構寝てたからだるくなってねーか?」

「はあ……まあ、あまり気分は良くないですね」

「そーかあ、そいつは良くねーな。うん、良くねぇ」


 十年来の友人であるかのように気さくに話しかけながら、男は水差しを手に取り、カップへと水を注ぐ。気分が良くないと言ったので気を遣って水を入れてくれたのだろう、と受け取るために少し身を起こした。


「ぷはー! うめぇ!」


 自分で飲むのかよ! と心の中で軽いツッコミをいれつつ、この馴れ馴れしい男が誰かを考える。

 どこかで見た記憶があるのだが、いかんせんこの世界に来てまともに動いたのは一日とちょっとだけだ。あまり話をしていない人のことが分からなくても仕方がない。


「よっし! 落ち着いたし、行くか!」

「えっと、その前に一ついいですか?」

「お、なんだ?」

「あなた、誰ですか?」


 驚愕に目を見開いたまま、男が固まる。もしかして、自分と親しくしてくれた人なのだろうか……?


「い、一緒に死線をくぐったオレのこと、忘れちまったのかよ?」


 ……死線をくぐるも何も、この世界にきて死にそうになったのは一度だけだ。その時は伽奈美と一緒だった。


「すみません、ちょっと……覚えてないです」

「そうか、覚えてねーか。んじゃ仕方ねーな! そういえば自己紹介も何もしてなかったし、オレが駆けつけてすぐに気絶してたから、覚えてない気もしてた」


 そんな袖振り合うよりも薄い縁でここまで馴れ馴れしく話をしていたのか。しかし、駆けつけて、気絶……という言葉に思い当たる節がある。


「……韋駄天いだてん


 そう、確か韋駄天と呼ばていた。聖剣を振るって力尽きようとしていた自分を護ってガルンを斬りつけた男。よく覚えていないが、赤い閃光が目に焼き付いている。


「お、ちゃんと覚えてるじゃねぇか。オレは冒険者やってるアクセルってもんだ。韋駄天ってのは、オレのあだ名みたいなもんだな」

「冒険者……もしかして、オレにこの世界のことや、生きるための戦い方を教えてくれるっていう……?」

「なんだなんだ、ちゃんと知ってんじゃねぇかよ! そういうことなら話は早い。いくぜ……えーっと、名前なんだっけ?」

「……俊彦、巽 俊彦です」

「タツミ、トシヒコ……どっちもファーストネームみたいだな。どっちがファミリーネームだ?」


 この世界では英語と同じで、ファミリーネームを後につけるのが一般的だったっけ。


「タツミがファミリーネームですね。トシヒコ・タツミです。よろしくアクセルさん」

「おう! よろしくなトシヒコ! 自己紹介も終わったことだし、早速行くか!」

「はあ、どこへ行くんですか? 冒険?」

「はあ? おめ、寝起きのパジャマで冒険って、そりゃ無茶ってもんだぜ?」


 ある意味、冒険中の冒険ってことか? と首を傾げて思考が飛んでいる。こういう自由な人と話をするとどっと疲れが出る。


「なんだ、疲れた顔してるな。うし、やっぱすぐに行こう。タイミングも悪くねぇ」


 だからどこへ行くのか、と言おうとしたが首根っこを掴まれて連れて行かれる。強引だな、この人。


「いいかトシ。お前が男なら、オレと一緒に越えなきゃならねぇ壁がある。それを越えて、初めてこの世界で生きる力が湧いてくるってもんだ」


 意味不明なことを言いながら、勢い良く扉を開けると、その先には騎士鎧を身に纏ったおっさんがいた。


「アクセル、貴様は今、聞き捨てならんことを言っていたな。男ならば、越えねばならん壁がある、と」

「フッ……まさかとっつぁんに聞かれるとはな。行くかい、男の……いや、漢としての壁を越えるための試練に」

「なるほど。勇者と共に、漢の壁を越えようというのか。ならば私も共に行かねばなるまい。」

「信頼できる仲間は多い方がいい。とっつぁんが来てくれるなら百人力だぜ。な、トシ!」


 名前くらいしか知らない馴れ馴れしい人と、誰かわからないおっさん。今のところ、信頼できる仲間はゼロだ。


「勇者タツミ! 冒険者アクセル!いざ征かん! 試練の旅へ!」


 こうしてオレは、屈強な騎士と飄々ひょうひょうとした冒険者と共に、試練への旅へと向かった。

 寝起きのパジャマで聖剣をベッドに置いたまま。